伝統的なエジプト年表では、紀元前3100年頃、ナルメル王の時代にエジプトが統一され、古代エジプト文明が確立されたとされています。
文明の歴史は、古王国、中王国、新王国の3つの王国に分けられます。この記事では、古代エジプトの暦から史上初のストライキまで、古代エジプトに関する17の興味深い事実をご紹介します。
簡潔な事実
17. 古代エジプト人は、男性も女性も化粧をしていました。彼らが使うほとんどのものと同様に、化粧品にも精神的な意味があり、化粧にも魔法のような治癒効果があると信じていました。
16. 女性用避妊具の使用は今に始まったことではありません。紀元前1850年頃の古代医学全書『エーベルス・パピルス』や『カフーン婦人科パピルス』には、いくつかの避妊法について記載されています。その中には、殺精子剤(避妊物質)の性質を持つアカシアガムの使用も含まれています。
15. 古代エジプト人は、何よりもボードゲームを楽しんでいました。「ハウンド犬とジャッカル」や「メヘン」などのゲームが行われました。最も人気があったのは「セネト」(チャンスとも呼ばれる)でした。エジプトの支配者たちの間でも、広く親しまれていたようです。
ラムセス2世の王妃の一人であるネフェルタリ女王がセネトに興じる姿は、様々な絵画の中で見られます。ツタンカーメン王の墓には、ゲーム盤が埋められていたそうです。
セネトに興じるネフェルタリ女王
画像出典:Nina de Garis Davies
14. エジプトのヒエログリフ(文字体系)には、アルファベット、音節文字、ロググラフなど、千種類近い異なる文字が存在します。ヒエログリフの解読は、1799年、ナポレオン・ボナパルトのエジプト侵攻の際にロゼッタストーンが発見されたことが最初の突破口となりました。
その後、19世紀にはシルヴェストル・ド・サシ【1758年~1838年、フランスの東洋学者、政治家】やトーマス・ヤング【1773年~1829年、イギリスの物理学者】といった学者がこの石を熱心に観察しました。しかし、翻訳を完成させたのは、ジャン=フランソワ・シャンポリオン【1790年~1832年、フランスの古代エジプト学の研究者】でした。
13. 古代エジプト人は、2,000以上の神々を崇拝していました。神々は自然の力を象徴していました。それぞれが異なる責任を持つ神々の力が自然の摂理に従って働くように、彼らは様々な供物を捧げて鎮めたのです。
12. エジプトの文化や信仰は、死後の世界観に大きな影響を与えました。彼らは、死後、肉体を保存する(ミイラ化する)ことで、その魂が永遠に生き続けることができると信じていました。
11. エジプトでは、現在までに130以上のピラミッドが発見されています。ほとんどのピラミッドは、エジプトのファラオ【古代エジプトの王を指す称号】とその家族のための墓(休息所)として建設されました。サッカラ【エジプトにある広大な古代の埋葬地】の第3王朝ジェセル王のピラミッドは、紀元前2630年から2610年の間に建てられたもので、エジプトのピラミッドの中で最も古いものです。
エジプト、サッカラのジョセル王のピラミッド
10. クフ王のピラミッドとも呼ばれるギザの大ピラミッドは、おそらくエジプトのピラミッドの中で最も人気のあるものでしょう。ギザのピラミッド群にある3つのピラミッドのうちのひとつで、高さは146メートルです。
9. 古代エジプトの暦は、1年365日で構成されていたことをご存知でしょうか?季節は3つあり、それぞれ120日または4ヶ月に分けられていました。1ヶ月はデカンと呼ばれる10日間の3つの期間で構成されていました。【デカン:古代エジプトの天文学で、360度の黄道をそれぞれ10度の36の部分に便利に分割するために使用された36のグループの星であり、外科的およびヘリカルな時計の両方の目的で使用される】
8. 世界最古のドレスはエジプトで発見された
タルカン・ドレス
画像出典:ペトリ・エジプト考古学博物館、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン
「タルカン・ドレス」は、世界最古の衣服です。1913年の発掘調査で発見されたエジプトのカイロにあるタルカン墓地にちなんで名付けられました。
最新の放射性炭素年代分析により、タルカン・ドレスは5000年以上前のものであることが判明しています。現在、ロンドンのペトリ・エジプト考古学博物館(ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン)に展示されています。
7. 古代エジプト人の平均寿命は40歳未満だった
ヘロドトス【古代ギリシアの歴史家】によれば、「エジプトはナイルの賜物」です。確かにナイル川は古代エジプトの成立に大きな役割を果たし、経済的にも政治的にもエジプトを支えました。しかし、その一方で、いくつかの問題も生じていました。
古代エジプト人はナイル川の近くに住んでいたため、マラリアなどの蚊が媒介する病気や、寄生虫による感染症に広くさらされていました。一方、富裕層のミイラには、糖分の多い食事が多く含まれており、過度の贅沢をしていたことがわかります。また、労働者や農民の間では、怪我や過度の肉体的ストレスが健康上の大きな問題になっていました。
これらのことが、古代エジプト人の平均寿命の短さにつながっています。ほとんどの国民が、40歳以上生存できる可能性が極めて低かったのです。18~19歳で亡くなったツタンカーメン王は、生前から複数の病気を患っていたことが疑われています。
6. 優れた船大工だった
複数の証拠から、古代エジプト人は複雑な造船技術に長けていたようです。1991年、考古学者のグループがエジプトの古代都市アビドス近郊で14隻の板張り船を初めて発見しました。これらは後にアビドス船と名付けられ、世界最古の板張り船となりました。
これらの遺物を注意深く調査した結果、古代エジプト人が全長約22m、幅2〜3mの大型船を建造することができた固有の技術が明らかになりました。その中でも特に注目されているのが、ほぞ継ぎによる接合です。これは、ほぞ穴にほぞを差し込んで、2枚の板を連結する技術です。
5. クレオパトラ7世はエジプト人ではなかった
アレクサンドル・カバネル【フランスの画家】によるクレオパトラの描写
クレオパトラは、おそらく古代エジプトで最も有名な人物(もちろんツタンカーメン王の次に)ですが、出自としてはエジプト人ではありません。生まれたのはエジプト(アレクサンドリア)でしたが、クレオパトラはアレキサンダー大王の軍隊に所属していたプトレマイオス1世ソテルというマケドニア人の将軍の子孫なのです。
プトレマイオス朝は紀元前323年から紀元前30年までエジプトを支配し、プトレマイオス1世ソテルに始まり、クレオパトラ7世に至ります。彼女はプトレマイオス朝の統治者の中で初めてエジプト語を母語とした人物でした。
4. 最古の平和条約を結んだ
紀元前13世紀から15世紀にかけて、エジプト王国はヒッタイト帝国と対立し、トルコとシリアを含む近東地域を支配していました。この争いは、ファラオのラムセス2世がエジプト軍を率いてカデシュの戦いに挑んだことで頂点に達しました。
この戦いは、明確な勝敗がつかず、両陣営にとって壊滅的な打撃となりました。行き詰まり、見通しもないまま、両勢力は、平和条約を結んだのです。
エジプト・ヒッタイト条約はカデシュ条約とも呼ばれ、両国は互いの土地を侵略しないだけでなく、外国からの侵略があった場合には互いに援助することを条件としています。
3. 古代エジプト人は様々な動物を家畜化していた
古代エジプトは、動物を家畜化した最初の文明のひとつです。彼らは、植物、動物、人間が、ひとつの全体の中の一部であると信じていました。そのため、宇宙の均衡を保つためには、3者間のバランスの取れた関係が不可欠であると考えていました。
エジプト社会では、動物は栄養源であると同時に精神的な拠り所として重要な役割を担っていました。猫や犬はエジプトの家庭でよく見られる動物ですが、羊、豚、ヤギ、ハトなども家畜化されていました。
また、馬やラクダ、象なども、文明の変遷とともに導入されました。
2. エジプトの医師は、特定の分野に特化した医療を行うことが多かった
古代エジプトの医学知識は、時代を先取りしていました。エドウィン・スミス・パピルス【外傷手術に関する書物】、エーベルス・パピルス、ハースト・パピルス【泌尿器系、血液、髪の毛、咬傷の問題の治療に焦点を当てた書物】といった古代の医学文献の翻訳に成功し、エジプト人が腫瘍を認識していただけでなく、その除去技術にも精通していたことが明らかになりました。その他、様々な病気の診断、予後、治療法についても言及されています。
世界最古の手術用文書、エドウィン・スミス・パピルス
古代エジプトの医師たちは、場合によっては、身体の一部分や節だけを治療することに重点を置いて診療を行っていました。ヘロドトスは、古代エジプトの医学について詳述しており、エジプトの医師がしばしばある特定の分野、すなわち身体の一部分を治療することに特化していたことを指摘しています。
他の専門分野に比べるとやや目立たないものの、歯科は古代エジプトで行われていた医学の重要な分野でした。出土したエジプト人の遺骨の歯は、極めて悪い状態でした。ルクソールの女性音楽家だったDjedmaatesankhは、歯槽膿漏のため35歳(最大で)で亡くなっています。その他、歯列矯正の問題で死亡した例も知られています。
1. 歴史上最も早い組織的ストライキの発生
紀元前1186年に即位したラムセス3世は、新王国時代最後の偉大なファラオとして知られています。彼の政権は、様々な外国からの侵略者に対する絶え間ない戦争によって引き起こされた、当時最悪の社会経済危機を目撃しました。
軍隊は侵略者からエジプトの国境を守ったものの、その戦争遂行努力は王国の資源と人材に打撃を与えました。紀元前1159年、セト・マアト(現在のデイル・エル・メディナ)の墓を作る職人たちが月給を受け取れず、ストライキを繰り返したことから、事態は収拾がつかなくなりました。