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世界のエンターテイナー、ミッキーマウスの生みの親。ウォルト・ディズニーの知られざる事実18選

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本記事は、18 Interesting Facts About Walt Disney’s Life
翻訳・再構成したものです。
配信元または著者の許可を得て配信しています。

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読了時間 : 約6分26秒

ウォルター・イライアス・ディズニーは、1901年12月5日にこの世に生をうけ、後に漫画家、アニメーター、そして映画プロデューサーとして名を成しました。1919年にカンザス州のペスマン=ルービン・コマーシャル・アート・スタジオで漫画家としてキャリアをスタートさせた彼は、映画広告会社の仕事をするようになります。その後紆余曲折を経て、最終的にはディズニー・ブラザー・スタジオ(後のウォルト・ディズニー・カンパニー)を設立するに至りました。

 

それからほぼ1世紀を経た今、ディズニーが単なる数百億ドル規模の企業という以上の存在であることを、私たちはすぐに忘れてしまいます。この記事では、ディズニー帝国の生みの親にして偉大な頭脳の持ち主であるウォルト・ディズニーについての興味深い事実をお伝えします。

 

ちょっとしたエピソード

 

18位: ディズニーというファミリーネームは、ノルマンフランス語の「d’Isigny」に由来します。ウォルト・ディズニーの祖先たちは、イギリスの小さな村に移住した後、自分たちの名前を英語化しました。その村は現在ノートン・ディズニーという名で呼ばれています。

 

17位: ウォルト・ディズニーは学校の劇でピーターパンを演じたことがあります。

 

16位: 短編漫画で最初の成功を収めた後、ウォルト・ディズニーは1921年にラフォグラム・フィルムという会社を設立しています。これが彼が初めて立ち上げた会社でした。ルドルフ・アイジング、アブ・アイワークス、ヒュー・ハーマンなどを雇ったのもこの時です。

 

15位: 漫画と並行して、ラフォグラム・フィルムは1923年に無声映画「アリスの不思議の国」の制作を開始します。これは当時の困窮した財政状況を補うことが大きな目的でした。しかし、同年に会社は倒産してしまうのでした。

 

14位: ミッキーマウスの世界には、モーティマー・マウスという名前のキャラクターが2人存在します。1人はミニーマウスのおじで、もう1人はミッキーマウスの宿敵というキャラクターです。しかし、私たちの大好きなミッキーマウスその人も、実はもともとはモーティマーという名前だったことをご存じでしょうか?

 

13位: 「白雪姫と7人のこびと」が公開される前、映画業界の大多数の人々がこの作品に疑問を呈し、会社はいずれ倒産すると思われていました。「ディズニーの愚行」と評する人までいたほどです。しかし映画は大成功をおさめ、150万ドルの予算で作った映画が800万ドル近い興行収入をあげたのでした。

「白雪姫」劇場予告のスクリーンショット

 

12位: 第二次世界大戦中、ディズニーは「総統の顔」や「空軍力の勝利」といったいくつかのプロパガンダ(反ナチス)映画を制作し、賞も獲得しています。

 

11位: 1932年から1935年までの2年間、ウォルト・ディズニーは三原色式テクニカラーの独占使用契約を結んでいました。これにより他のスタジオは、倒産するか、他の技術を奪い合うかを迫られることになりました。

 

10位: 小惑星帯のメインベルトに位置する4017 Disneyaは、ウォルト・ディズニーにちなんで名づけられた小惑星です。1980年にウクライナ天文学者、リュドミーラ・カラチキナが発見しました。

 

9位:ディズニーのアニメキャラクターで最初に有名になったのは「しあわせウサギのオズワルド」

 

1927年、配給業者であるチャールズ・ミンツの要望で、ユニバーサル・ピクチャーズのために新しいアニメキャラクターの制作に取り掛かりました。名前は、「しあわせウサギのオズワルド」。このキャラクターは瞬く間に人気を博し、ディズニーの最初のメジャーヒットとなりました。

 

大ヒットの後、ディズニーは「オズワルド」シリーズの予算を増やしてほしいと要望しましたが、これがミンツの耳に入ると、彼はそれを拒否しただけでなく、報酬の減額まで求めてきたのです。さらに、ディズニーはオズワルドの知的財産権がユニバーサル・ピクチャーズのものであることにも気づきました。

 

これに怒ったディズニーは、彼に忠誠を誓う何人かのアーティストたちと共にスタジオを去りました。

 

8位:ミッキーマウスを描いたのはウォルト・ディズニーではない

ウォルト・ディズニーとミッキーマウス

 

チャールズ・ミンツが率いるウィンクラー・ピクチャーズにスタッフの大半を奪われてしまった後、ディズニーは1928年に自身のスタジオを設立。彼は仲間たちに新しいキャラクターのアイデアを募りました。その中には、ディズニーの長年の友人でもあったアブ・アイワークスもいました。

 

チームのメンバーは、猫や犬、カエルなどの動物をモチーフにしたさまざまなキャラクターのアイデアを出しましたが、どれもさほどディズニーの興味をそそりませんでした。ディズニーがネズミをキャラクターにすることを思いついたのは、当時スタジオの机で飼い始めたばかりだったペットのネズミにインスピレーションを受けたためだと言われています。

 

ディズニーはこのアイデアをアイワークスに伝え、アイワークスが今日私たちの知っているミッキーマウスというキャラクターを生み出したというわけです。サイン会や特別な要望がない限り、ディズニー自身は決してミッキーを描きませんでした。

 

7位:しかし、ミッキーマウスの声はディズニー自身が担当した

映画「蒸気船ウィリー」で正式なデビューを果たしたミッキーマウスのスクリーンショット

 

ミッキーマウスの声は、誕生した1928年から1947年まで、何を隠そう生みの親であるウォルト・ディズニーその人が務めていました。

 

1947年からは、当時ディズニースタジオの音響効果部門の責任者だったジミー・マクドナルドに代わりましたが、その後も1966年にディズニーが亡くなるまでの間、彼が再び声優を務めることが時々ありました。

 

彼が声をあてた主な作品には、テレビシリーズの「ミッキーマウス・クラブ」(1955~1959年)や、1957年9月11日に放送された「4周年記念ショー」などがあります。

 

6位:ウォルト・ディズニーは陸軍に入隊するために学校を退学した

 

学生時代、ディズニーは愛国心をテーマにした絵や第一次世界大戦をモチーフにした漫画をたびたび制作しています。1918年には、戦争に参加するためにアメリカ陸軍に志願しましたが、年齢が若すぎるという理由で断られてしまいました。

 

その後、彼は年齢を偽って赤十字に入り、救急車のドライバーとしてフランスの最前線に派遣されました。しかしそこでの活動は長くは続きませんでした。11月に連合軍の勝利によって終戦を迎えたためです。

 

5位:ディズニーとその家族はディズニーランドにプライベートルームを持っていた

ウォルト・ディズニーと家族/画像提供:Wikimedia Commons

 

筋金入りのディズニーランドファンの多くはすでに知っていることですが、ディズニーランドのメインストリートUSAには秘密の部屋があります。タウンスクエアの消防署の真上にあり、窓からランプの光が一日中揺らめいているのが見えます。このランプは、ウォルト・ディズニーに敬意を表して灯されているということです。

 

部屋の中にはヴィンテージの楽器や、アンティークの装飾品や家具などが、ウォルトとその家族がかつて過ごしていた頃とほとんど変わらない状態で並んでいます。この部屋は一般の人は立入禁止になっており、VIPゲストのみが入ることを許されています。

 

ウォルトの娘であり、ウォルト・ディズニー・ファミリー博物館の設立者でもあるダイアン・ディズニー・ミラーがハフィントンポストのインタビューでリポーターに語ったところによると、秘密の部屋には、かつて消防士のすべり棒と試写室があって、その試写室で実写映画を観ていたそうです。

 

4位:ウォルト・ディズニーは冷凍保存されていないし、過去にもされていたことはない

 

肺がんの診断を受けたウォルト・ディズニーは、1966年12月15日に65歳で亡くなりました。死後、彼はフォレスト・ローン・メモリアル・パーク(カリフォルニア州グレンデール)に埋葬されており、冷凍保存されているという説はただの迷信です。

 

この話が広まったきっかけは、おそらく1972年に当時カリフォルニア・クライオニクス団体の代表だったボブ・ネルソンが語ったインタビューだと思われます。ウォルト・ディズニーは冷凍保存されていないと彼ははっきり述べたにもかかわらず、冷凍保存されたがっていた、という話を人々が勘違いしてしまったのでした。

 

3位:ディズニーのおかげで彼の家政婦は大金持ちに

 

セルマ・ハワードという女性は、ディズニー家に長く仕えていた家政婦兼料理人でした。1951年にディズニー家で働き始め、すぐに家族にとって欠かせない存在になりました。ディズニーはハワードの仕事ぶりをそれは気に入っていて、彼女のことを「本物のメリー・ポピンズ」と呼んでいたほどです。

 

毎年、年末になるとウォルト・ディズニーは、ハワードや他の使用人に、ディズニーの株式の一部を贈与していましたが、当時はほとんど利益になりませんでした。約30年後の1981年に、彼女は退職しました。

 

ハワードは所有していたディズニーの株式を一度も売却しておらず、その価値は1980年から1993年の間に12倍以上にも跳ね上がったのでした。1994年にハワードが亡くなったとき、彼女の個人資産は、なんと約900万ドル。彼女の遺言で、資産の半分は障害を持つ息子に贈られ、あとの半分は貧しいホームレスの子どもたちの福祉のために寄付されました。

 

2位:大の鉄道ファンだった

 

ディズニーの鉄道愛は隠しようがないものでした。子どもの頃、彼はアッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道の近くに住んでおり、電車に夢中になって育ちました。また、父親のイライアスとおじが共に鉄道の仕事をしていたことも、鉄道に魅了されたもう1つの理由でした。

 

1928年、ファンに人気のあった「しあわせウサギのオズワルド」を失ったディズニーが、ネズミを主人公にしたアニメのアイデアを思い付いたのも、家へ帰る列車の中での出来事でした。

 

数年後、彼はロサンゼルスの自宅の裏庭に蒸気機関車と線路の模型まで作ってしまいました。妻のリリアンにちなんでリリー・ベルと名付けられたその蒸気機関車は、1周あたり半マイルのコースを走っていました。

 

1位:アカデミー賞の個人受賞最多記録保持者である

 

ウォルト・ディズニーは、1932年に「花と木」という映画で初めてアカデミー賞を受賞します(また、ミッキーマウスを生み出したことに対して名誉賞も同時に贈られました。)。その後、1969年までに計22回もアカデミー賞を受賞しました。特に印象的な作品としては、「風車小屋のシンフォニー」や「3匹の子ぶた」などがあります。

 

ノミネートされた回数はなんと59回。名誉賞もたびたび受賞しています。さらに、1969年に「プーさんと大あらし」がアカデミー賞のノミネートおよび受賞を達成したことで、ディズニーは死後に受賞した数少ない人物となりました。

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