不公平、不公正、差別ということになると、科学の世界でさえ、それから逃れられるものはありません。19世紀と20世紀には、等しく神から授かった頭脳によって、いくつもの素晴らしい発明がなされました。
それでも、すべての科学者が真にふさわしい評価と名声を得られるわけではないのです。この記事では、今日でも賞賛に値するものを生み出したにもかかわらず、生前は報われることも評価されることもなかった科学者たちを(順不同で)ご紹介します。
15. アルトゥール・アイヒェングリュン
アルトゥール・アイヒェングリュン【1867年~1949年】はドイツ生まれのユダヤ系の化学者であり、抗生物質が台頭する以前にプロタルゴールとして知られる抗淋病薬を処方したことで有名な発明家です。大学で化学を専攻した後、1890年に博士号を取得し、その後、製薬会社バイエルに入社しました。
その会社に勤めていたとき、プロタルゴールを発見したのですが、それはサルファ剤が登場するまで一般的に使用されていました。41歳でバイエル社を辞め、ドイツの首都にCellon-Werkeという名の自分の会社を設立しました。
1944年5月、その製薬会社との問題により、アルトゥールは2度目の逮捕を受けただけでなく、強制収容所に強制送還されました。
功績:アルトゥール・アイヒェングリュンは45以上の特許を持ち、多くの価値ある発明で社会に貢献しました。それでも、彼が実際にアスピリンを発明したと主張していることを知っている人はごくわずかです。
当時、同じバイエル社の科学者であったフェリックス・ホフマンがアスピリンを発明したことは、誰もが認めるところです。しかし、アルトゥールは後年、自分こそが発明者であることを証明しようとしました。
14. ロザリンド・フランクリン
ロザリンド・エルシー・フランクリン【1920年~1958年】はイギリス生まれの化学者で、学者生活のすべてを物理化学に費やし、複雑な炭素構造の解明に取り組みました。1941年、ケンブリッジ大学に入学し、そこで化学の学士号を取得しています。
ケンブリッジ大学ではロナルド・ノーリッシュ(1967年ノーベル化学賞受賞者)の下で研究を行いました。また、1950年には3年間のフェローシップでキングス・カレッジに留学しています。
功績:石炭、グラファイト、ウイルスに関する広範囲にわたる研究が広く評価されましたが、おそらく彼女の最大の発明は、「フランクリンのDNAの分子構造」でしょう。
フランシス・クリック【イギリスの科学者】とジェームズ・ワトソン【アメリカ出身の分子生物学者】は、DNAの二重螺旋構造の発見の功績により1962年にノーベル生理学・医学賞を受賞しましたが、フランクリンのDNAの実験データを利用したことはピンポイントで証明されています。
13. ニコラ・テスラ
二コラ・テスラ【1856年~1943年】について、あらためて紹介する必要はないでしょう。セルビア系アメリカ人の機械技師です。1875年、オーストリアのグラーツ工科大学に入学し、1年間学びました。
テスラには、いわゆるフォトグラフィック・メモリー(写真的記憶術)と呼ばれる記憶力があったとされています。また、2時間以上眠ったことがないと断言していました。数々の賞を受賞したものの、国際的な賞にノミネートされたことはありません。
功績:1887年、交流で動く最初の誘導モーターを開発しました。この電流システムは、長距離の高電圧伝送が可能なため、後に直流よりも人気を博したのです。大衆文化においては、ニコラ・テスラは史上最高のオタクと呼ばれるかもしれません。
12. アラン・チューリング
アラン・チューリングは、1912年6月23日にイギリスで生まれた、コンピュータ科学、数学、暗号解読のパイオニアです。ケンブリッジ大学のキングス・カレッジで数学を専攻し、卒業しました。
キャリアの黎明期、イギリスで残酷な同性愛行為の被害に遭いました。同性愛者であることがきっかけとなり、暗号解読の仕事をしていたGCHQ【政府通信本部】から1946年に解任されました。1954年6月8日、自室で死亡しているのが発見されました。
功績:第二次世界大戦中、傍受された暗号メッセージの解読に重要な役割を果たし、大西洋の戦いで連合国がナチスを打ち負かすことを可能にしました。チューリング発明したボム(エニグマ暗号をより効率的に解読する電気機械)は、ヨーロッパでの戦争を2年近く短縮したのです。
11. 呉健雄
中国生まれの呉健雄[ご けんゆう、Chien-Shiung Wu]【1912年~1997年】は、科学の世界において比較的無名であることを示す完璧な例です。中国の浙江大学で大学院レベルの研究を行った後、ミシガン大学への進学が決まりました。その後、カリフォルニア大学バークレー校で研究を行いました。
功績:パリティ保存の仮定の法則を覆した「ウー実験」【素粒子および原子核物理学の実験】で知られています。また、「中国のキュリー夫人」、「核研究の女王」というニックネームで呼ばれました。
10. アルフレッド・ウェーゲナー
アルフレッド・ロータル・ウェーゲナー【1880年~1930年】はドイツの地球物理学者・気象学者です。1905年に天文学の博士号を取得しました。その翌年、グリーンランドでの4回の探検のうち最初のものに参加しています。グリーンランドでの最後の探検となった4回目の探検中に死亡しました。
功績:1922年に「大陸移動説」を提唱しました。それが完全に受け入れられたのは、古地磁気のような多くの発見が地球の過去の歴史における大陸移動の証拠を示した1950年代になってからです。現代のプレートテクトニクス理論はウェーゲナーの大陸移動説に基づいているのです。
9. トーマス・エジソン
トーマス・アルバ・エジソン【1847年~1931年】がどんな人物であり、人生において何を行ったかについては、おそらく誰もが知っているでしょう。彼は正規の学校教育を受けず、主に古典的な方法論から学びました。それでも、1,000件以上の特許を持つ多作な発明家になったのです。
功績:彼の最初の注目すべき発明は1877年の蓄音機です。家庭や工場への発電・配電システムを開発しました。1879年には、石油を動力とする照明システムに対抗するため、電球を開発しています。
8. サティエンドラ・ナート・ボース
1894年1月1日、西ベンガル州生まれのサティエンドラ・ナート・ボース【~1974年】は、インドが生んだ最大級の天才のひとりです。その輝かしい学歴の中で、彼はインドのプレジデンシー大学に進み、そこで修士号を取得しました。その後、カルカッタ大学で教授となり、相対性理論を幅広く研究しました。
功績:ボースは、ボース-アインシュタイン統計(すべてのボソン【ボース粒子】が従う原理)を提唱したことで知られています。ボース-アインシュタイン凝縮、ボソンの分野でノーベル賞が授与されたものの、彼自身が受賞することはなかったのです。
7. フリッツ・ツビッキー
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フリッツ・ツビッキー【1898年~1974年】はスイスの天文学者で、1925年に移住したアメリカのカリフォルニア工科大学でほとんどの時間を過ごし、理論天文学に多大な貢献をしました。
功績:フリッツ・ツビッキーは、ビリアル定理を初めて適用し、ダークマター(暗黒物質)と呼ばれる星間物質の存在を証明しました。また、イオン結晶と電解質にも大きく貢献しています。
6. ジョスリン・ベル・バーネル
最初の電波パルサー(高磁力で回転する中性子星)は1967年に発見されました。ケンブリッジ大学の2人の科学者が、天空の電波源を探しているときに偶然発見しました。ジョスリン・ベル・バーネルはそのうちのひとりです。
1943年、北アイルランドに生まれ、スコットランドのグラスゴー大学を卒業しました。ケンブリッジ大学で影響力を発揮した後、2002年から2004年まで王立天文学会の会長も務めました。
功績:大学院時代、同僚のアントニー・ヒューイッシュと初めて電波パルサーを発見しました。ところがその後、ヒューイッシュとマーティン・ライル【イギリスの天文学者】が電波パルサーの発見で、1974年にバーネルを除いてノーベル賞受賞を分け合ったのです。このバーネルの除外はその後も論争の的となっています。
5. ヘンリエッタ・スワン・リービット
ヘンリエッタ・スワン・リービット【1868年~1921年】はアメリカの天文学者です。1893年、ハーバード大学の天文台で、星の明るさを測定して、カタログ化する「人間コンピュータ」のひとりとしてキャリアをスタートさせました。
功績:ハーバード大学天文台での仕事中に、ケフェイド変光星の光度(星が放出するエネルギーの総量)と周期の関係を発見しました。彼女は星の明るさを調べるために写真乾板【ヨウ化銀や臭化銀などの感光乳剤をガラス基板上に塗布し乾燥させたもの】を使いました。彼女の発見により、科学者や天文学者は恒星の視差から星間距離を計算できるようになったのです。
4. リーゼ・マイトナー
リーゼ・マイトナー【1878年~1968年】は、1905年、ウィーン大学で物理学の博士号を取得した2人目の女性となりました。また、ベルリン大学初の女性物理学教授でもありました。ユダヤ人として生まれたものの、1908年にキリスト教に改宗し、洗礼を受けています。マイトナーの功績はノーベル賞委員会によって大いに見過ごされました。
功績:1935年、オットー・ハーン【ドイツの化学者・物理学者】とともに「超ウラン元素」の実験に取り組み、ウランとトリウムの核分裂を発見しました。1944年にオットー・ハーンはノーベル化学賞を受賞しましたが、マイトナーは候補から除外されたのです。
3. イーダ・タッケ
イーダ・タッケは、1896年、ドイツのノルトライン=ヴェストファーレン州ヴェーゼルに生まれました【~1978年】。ドイツで初めて化学を学んだ女性で、ベルリン大学で博士号を取得しました。
タッケは物理学者でもあり、核分裂のアイデアを最初に生み出しました。結婚後は夫ウォルター・ノダックの姓を名乗ってイーダ・ノダックとなりました。夫とともに75番元素レニウムを発見し、3回もノーベル賞候補になっています。
2. エスター・レーダーバーグ
エスター・レーダーバーグ【1922年~2006年】は、アメリカの微生物学者です。スタンフォード大学、次いでウィスコンシン大学に進学しました。生涯を通じて、男女差別に関するいくつかの問題に直面しました。
功績:細菌遺伝学を専門とする微生物学者として知られています。最も顕著な発見は、ラムダファージウイルスと、特殊な形質導入による細菌間の遺伝子伝達です。また、細菌の繁殖因子Fプラスミドを発見しました。
1. ネッティ・スティーブンス
ネッティ・スティーブンス【1861年~1912年】はアメリカの遺伝学者です。スタンフォード大学で1899年に学士号、1900年に修士号を取得しています。スティーブンスは、性別の基礎となる染色体を発見しました。人の性別はXとYの一対の染色体によって決定されるのです。
それでも、生物学の分野におけるこの多大な貢献に対してノーベル賞を授与されることはありませんでした。彼女の死後、後任のトーマス・ハント・モーガン【アメリカの遺伝学者】は『サイエンス』誌に「彼女は科学者というより技術者だった」と投稿しました。