エイブラハム・リンカーンは、歴史上のアメリカ合衆国大統領の中でもっとも人気の高い3人のうちの1人として広く知られています。あとの2人は、ジョージ・ワシントン(初代大統領)とフランクリン・D・ルーズベルトです。リンカーンは、南北戦争勃発前の1861年3月4日に大統領に就任し、1865年4月14日に暗殺されました。
彼の政権期間中、アメリカ合衆国は奴隷制度を非合法化し、国内に住む黒人たちを守るためにさまざまな施策を取り入れました。また、アメリカ初の連邦所得税の導入など、経済に関する重要な政策も導入しました。
彼はずば抜けた能力を持つ人物で、国のために命を捧げ、人類の自由の擁護者であり、道徳と自由の象徴でもありました。この記事では、そんなエイブラハム・リンカーンについてのあまり知られていない事実をお伝えしましょう。
リンカーンがイリノイ州に移ったのは21歳のときだった
エイブラハム・リンカーンの代表的な肖像画
アメリカ・イリノイ州はリンカーンゆかりの地として知られていますが、アメリカ合衆国第16代大統領である彼が少年時代のほとんどを過ごしたのは、実はインディアナ州でした。彼は1809年にケンタッキー州で生まれ、1816年に家族と共にオハイオ川を渡ってインディアナ州南部に移り住みます。
1872年に区画整備されたオレゴン州のリンカーンシティは、リンカーン一家が1816年からイリノイ州に移る1830年までの間住んでいたことにちなんで名づけられました。この街は、リンカーン少年時代国立記念館や、1816年に建てられたリンカーン一家の丸太小屋があることでも知られています。
リンカーンのスーツはブルックスブラザーズ社製
ブルックスブラザーズ社は、おそらくアメリカでもっとも長い歴史を持ち、もっとも有名なアパレル会社の一つでしょう。1818年に創業した同社は、多くのアメリカ合衆国大統領(45人中41人)の衣装をあつらえていることで知られています。
セオドア・ルーズベルトが米西戦争のときに同社に軍服を注文したのをはじめ、ジョン・F・ケネディやビル・クリントン、バラク・オバマなどが同社の洋服を愛用しました。しかし、このトレンドを最初に始めたのはリンカーンなのです。
2度目の就任式で、リンカーンはブルックスブラザーズ社が特別にあつらえた特徴的なコートを着ていました。コートの裏地には、鷲と「One Country, One Destiny」(一つの国、一つの運命)という銘をデザインした手縫いの刺繍が施されていました。彼がフォード劇場で暗殺された夜も、そのコートと、同じくブルックスブラザーズ社製のスーツを着ていたといいます。
彼がリンカーン・ベッドルームで眠ったことは一度もない
2005年 リンカーン・ベッドルーム/画像提供:ホワイトハウス歴史協会
ホワイトハウス2階の南東の角にあるリンカーン・ベッドルーム。この部屋は1809年に作られ、1824年までは寝室として使われていました。その後、1825年から1865年までの40年間は、大統領の執務室となっていました。
リンカーン大統領は、この部屋を執務室としてだけでなく閣僚室としても使っていました。彼が大統領行政命令「奴隷解放宣言」に署名し、アフリカ系アメリカ人の法的地位を奴隷から自由の身へと変えたのもこの部屋でした。1863年1月1日の出来事です。
リンカーン・ベッドルームは、長い年月を経て何度も新しくなりました。ハリー・S・トルーマン政権時代には、8×6フィートの大きなローズウッド製ベッドをはじめとする家具がこの部屋に運び込まれ、このベッドはリンカーン・ベッドと名付けられました。本人は一度も使ったことがないのに、です。
ナショナル・レスリング殿堂に登録されている
エイブラハム・リンカーンがアメリカの歴史上もっとも慕われている大統領であることは疑う余地がなく、また世界でもっとも偉大なリーダーの1人であることも間違いありません。しかし、彼が優れたレスリング選手でもあったという事実は、それほど知られていません。
恵まれた体格と長い手足のおかげで、彼は若くして組み技の達人となりました。レスラーとしての短いキャリアの中で300回近く対戦し、負けたのはたった1回だったという資料も残っているほどです。
また、カール・サンドバーグが書いたリンカーンの伝記には、相手を倒した後、次のように言い放って観客を堂々と挑発したというエピソードも残っています。「我こそは最強の雄鹿だ!挑戦したい者がいれば、つのを研いでかかってきたまえ!」
彼の死後の1992年、ナショナル・レスリング殿堂は、リンカーンに「アウトスタンディング・アメリカン(優れたアメリカ人)」賞を授与しています。
ホワイトハウスの外でライフルの試し撃ちをしていた
1865年式スペンサー銃/画像提供:Wikimedia Commons
エイブラハム・リンカーンは軍人経験を持つ大統領として、その政権期間中、政治と軍事の統制に積極的に取り組みました。サムター要塞の戦いの後、リンカーンは海上封鎖によってアメリカ連合国の貿易を阻止することに成功しました。
自身が偉大なリーダーであることを証明しただけでなく、彼の銃器に対する情熱もまた、南北戦争中に広く賞賛を集めました。ホワイトハウスでの武器のテストや射撃練習には、リンカーンも定期的に参加していました。
また、しばしば射撃場でライフルを手にしていましたし、ホワイトハウスの敷地内でも射撃練習を行っていました。そういった射撃訓練で使っていた武器の中には、海軍省から借りたスペンサー連弾銃などがありました。
戦場で敵の攻撃を受けたことがある
1864年7月12日、リンカーン大統領はスティーブンス砦(旧ワシントン準州)の前線司令基地を訪問しました。最終的には、北軍がこのスティーブンス砦の戦いで勝利を収めたのですが、前線でのある出来事によって、リンカーンは危うく命を落としかけたといいます。
戦況を見守るために砦の高台に立ったリンカーン大統領は、南軍の兵士から銃撃を受けてしまったのです。彼は無傷で戦場を脱出することができましたが、そのときオリバー・ウェンデル・ホームズ Jr.大佐がリンカーンに向かって、「伏せろ、ばか者!」と怒鳴ったという伝説が残っています。
アメリカの歴史上、現職の大統領が戦場で直接攻撃を受けたのは、これが最初にして唯一のことです。
リンカーンの母は有毒物質の入ったミルクで命を落とした
ナンシー・リンカーンは1818年10月5日に亡くなりました。息子のエイブラハムがまだ9歳の頃です。彼女の正確な死因は分かっていませんが、1800年代にインディアナ州南部で多くの人が命を落とした「ミルク病」が原因だという説が有力です。
これはマルバフジバカマという毒草を食べて牛の汚染されたミルクを飲んだり、肉を食べたりすることでかかる病気です。
しかし、結核やがんにかかっていたという可能性も否定はできません。
南北戦争中に初の気球司令部を創設
世界初の気球母艦ジョージ・ワシントン・パーク・カスティスに係留された気球ワシントン号/画像提供:アメリカ海軍
記録に残る中で巨大な気球が初めて戦争に使われたのは、1794年のフルーリュスの戦いでのこと。フランス航空部隊が基本的な監視のために気球を使用していました。
アメリカでは、リンカーン大統領の指揮下で南北戦争中に初の気球司令部が創設されました。南軍を空から偵察することがこの部隊の主な目的でした。
1861年にリンカーン政権が初めて所得税を導入した
南北戦争は、第一次ブルランの戦いで北軍が大敗を喫したことから始まりました。戦いを続けるために、議会とリンカーン大統領はさらなる資金を集めるべく金融規制を課しました。
1861年の歳入法により、この国始まって以来初めての連邦所得税が導入されたのです。当初は年間800ドル以上の所得に対して一律3パーセントの税が課され、1862年の歳入法で累進課税制度が導入されました。また、同年には内国歳入長官の命により、内国歳入庁(IRS)が設立されました。
その後1872年に連邦所得税法が廃止されるまでの間、税率は徐々に上がっていきました。
墓荒らしがリンカーンの遺体を盗もうとしたことがある
1876年11月、シカゴを拠点とするアイルランド系偽造ギャング団が、イリノイ州スプリングフィールドのオークリッジ墓地にあるリンカーンの墓から遺体を盗み出す計画を立てました。彼らは遺体と交換に20万ドルの身代金と、イリノイ州刑務所で10年の懲役刑に服していた仲間の1人の釈放を求めようとしたのです。
幸いなことに、犯人グループのうち2人は、シークレットサービスに金で雇われた情報提供者でした。彼らはギャングに潜入し、二重スパイとしてグループに関する有益な情報を当局に提供した後、他のメンバーを罠にかけたのです。
リンカーンの棺は17回移動した
エイブラハム・リンカーンは、1865年4月15日にワシントンD.C.で亡くなりました。彼の死後、ホワイトハウスで葬儀が執り行われ、アメリカ合衆国議会議事堂のロタンダでは記念礼拝が行われました。
遺体は葬送列車に乗せられ、11の都市を巡りながら、目的地であるイリノイ州スプリングフィールドに向かいました。そして1865年5月4日、ついにスプリングフィールドのオークリッジ墓地に埋葬されたのでした。
1865年5月から1901年9月26日までの間に、改装や防犯上のリスク、身元確認など様々な理由により、棺は計17回移動され、計5回開かれました。
暗殺者ジョン・ウィルクス・ブースの兄はリンカーンの息子の命を救った
ジョン・ウィルクス・ブースがリンカーン大統領を暗殺する数か月前のこと、ニュージャージー州ジャージーシティの駅のプラットフォームでとある事故が起こりました。そのとき、リンカーンの長男ロバート・トッド・リンカーンを救ったのは、暗殺者ジョンの兄であるエドウィン・ブースでした。
ロバート・トッドが乗客の一団に押されて、プラットフォームと列車の間の隙間に落ちてしまったのです。そのときエドウィン・ブースがロバート・トッドを引き上げて、彼の命を救いました。弟と違ってエドウィン・ブースは北軍派であり、リンカーンの熱烈な支持者でもあったのです。
特許を取得したアメリカ大統領はリンカーンだけ
エイブラハム・リンカーンの特許の模型(デヴィッドとジェシー・カウヒグ/Flickr)
リンカーンにまつわるもっとも興味深くてあまり知られていない事実の一つは、自身の名前で実用特許を持っている史上唯一のアメリカ大統領である、ということです。リンカーンと言われて私たちがまず思い浮かべるのは、レスラー、優秀な弁護士、「偉大なる奴隷解放者」などでしょう。しかし、多くの人は知らないことですが、彼は発明家でもあったのです。
大人になったリンカーンは機械的なものに強い情熱を示し、1849年5月22日には、浅瀬(水中の隆起した部分)に乗り上げた船を浮かせる装置の特許を取得しました。ただし、その装置は実際に製造されるまでには至らなかったそうです。
リンカーンの懐中時計の謎
リンカーン大統領の有名な懐中時計
1858年に、リンカーンはイリノイ州スプリングフィールドの宝石商、ジョージ・チャタートンから、エレガントな懐中時計を購入しました。機械部品はイギリスのリバプールで製造されたものでしたが、純金製のケースはアメリカでつくられた最高級品です。
この時計は、1861年にワシントンD.C.にあるM.W. Galt and Co.という時計店に修理に出されました。そのとき、ジョナサン・ディロンという時計職人が文字盤のねじを外し、この時計に秘密のメッセージを刻んだのでした。
2009年にジョナサン・ディロンの3代目の孫が、この時計を保管するスミソニアン博物館に連絡をとり、この話を伝えました。彼らが時計を開けてみたところ、内部に次のような言葉が彫られているのを発見しました。「ジョナサン・ディロン 1861年4月13日 上記の日に、サムター要塞は反逆者に攻撃された。J・ディロン 1861年4月13日 ワシントン 幸いにも我々には政府がある。ジョナサン・ディロン」リンカーンは、自分がポケットの中にこんなメッセージを持ち歩いていることなど、知る由もありませんでした。
暗殺される数時間前にシークレットサービスを創設していた
Currier & Ives Lithography Companyによるエイブラハム・リンカーン暗殺の手彩色のリトグラフ
アメリカ合衆国シークレットサービスは、間違いなく世界でもっとも評判の高い法執行機関の一つです。また、もっとも長い歴史を持つ組織の一つでもあります。
現在、シークレットサービスの最優先事項は国家のリーダー(大統領および副大統領)を守ることですが、1865年に設立されたときの主な目的は、偽造通貨を取り締まることでした。当時流通していた通貨のおよそ3分の1は偽造だったとも言われています。
シークレットサービスを創設した法律には、1865年4月14日にエイブラハム・リンカーンが署名を行いました。そして同日に、彼はフォード劇場で暗殺されてしまったのでした。もしもリンカーンがもう少し早くシークレットサービスを設立していたら、自身の死を防ぐことができたのにと思わずにはいられません。とはいえ、現在と違って、当時のシークレットサービスはほとんど経験がなく、任務も異なっていたのですが。
シークレットサービスが大統領警護の任務を負うようになったのは、ウィリアム・マッキンリー大統領が暗殺された1901年になってからのことです。