・アレクサンダー・グラハム・ベルが電話を発明したと一般に信じられているが、実際には多くの人々の研究の成果である。
・アントニオ・メウッチ、ヨハン・フィリップ・ライス、インノチェンツォ・マンチェッティ、イライシャ・グレイが電話の発明に大きく貢献した。
電話の概念は、1664年にイギリスの物理学者・数学者のロバート・フックが考案した糸電話(恋人電話とも呼ばれる)にさかのぼります。しかし、最初の実用的な電話が実現したのは19世紀半ばのことです。
特定の発明の真の発明者を特定するのは、厄介なことかもしれません。たいていの場合、最初の発明者よりも、最も実用的で優れたプロトタイプの発明者の功績が称えられることになります。電話の発明もそのひとつです。
一般的には、アレクサンダー・グラハム・ベルが電話を発明したとされていますが、それは多くの人々による研究と実験の集大成だったのです。
数人の発明家と多数の企業によって行われた実験的研究と「有線による音声伝送」は、特許請求権に関する一連の訴訟につながりました。この問題をめぐる新たな論争は今日に至るまで続いています。
その全容を説明するために、この記事では、電話の発明に貢献した7人の重要な発明家をご紹介します。
アントニオ・メウッチ
1854年、初期の音声通信装置を開発
アントニオ・メウッチ【イタリア人の発明家、1808年~1889年】は電話のような装置を開発したことで知られています。1854年に、telettrofono[テレトロフォーノ]と呼ばれる初期の音声通信装置を発明しました。
対になった電磁受信機と送信機を作ったことを主張しましたが、これは彼の1871年の米国特許の仮出願(発明の意思表示であり、正式な特許出願ではない)には記載されていませんでした。
電話線への誘導負荷(長距離信号の増強)の初期の発明の功績については、メウッチに与えられました。しかし、ビジネス能力が低く、英語も話せなかったため、アメリカで発明を商品化することはできなかったのです。
2002年、アメリカ下院は、電話の発明において(電話の発明のために、ではなく)貢献したメウッチを称えました。下院は次のような決議案を可決したのです。
「もしメウッチが1874年以降も仮出願を維持するために10ドルの手数料を支払うことができたなら、ベルに特許が発行されることはなかっただろう」
2008年、イタリア文化遺産・活動省は、「Inventore del telefono」(電話の発明者)というタイトルを使って、メウッチの生誕200年を祝いました。
ヨハン・フィリップ・ライス
ライスとライス式電話
1861年、初の「電路開閉式」電話を開発
独学で学んだドイツの科学者ヨハン・フィリップ・ライス【1834年~1874年】は、1861年に初めて音声を伝達する電話機を製作し、これは「ライス式電話」として知られています。
彼は自分の装置を説明するために「テレフォン(telephon)」という言葉を作り出しました。この装置は音を捕らえ、電気インパルスに変換し、そのインパルスを、電線を通して別の装置に送信し、その装置がそのパルスを人間が認識できる音に変換するものです。
この装置が長距離で(電気的に増幅しない)音を伝送できることを証明するために、ライスは『Das Pferd frisst keinen Gurkensalat(馬はキュウリのサラダを食べない)』という難解なドイツ語のフレーズを送りました。
後にイギリスの電話会社スタンダード・テレフォン・アンド・ケーブルズ社が、1860年代初頭に製造されたライスの装置は、質の良い音声の送信と再生が可能であったものの、効率は低かった、ということを見いだしました。
フィリップ・ライスは1874年に死去しましたが、その4年後、ヨーロッパの研究者たちは電話の発明者として彼の記念碑を建てました。
インノチェンツォ・マンチェッティ
1864年、「話す電信機」を発明したと伝えられる
インノチェンツォ・マンチェッティ【イタリア人の発明家、1826年~1877年】が初めて「speaking-telegraph【話す電信機】」のアイデアを発表したのは1843年でした。しかし、彼が実用的なプロトタイプを完成させたのは1864年のことです。
1865年、彼は大声で話された母音や音楽を高品質で再生できる電気電話を製作しました。しかし、彼自身が特許を取得したわけでも、学会で発表したわけでもありませんでした。
パリの新聞『ル・プティ・ジュルナル』には、その装置が簡単な記事で紹介されていますが、当時、どの地域においても英国企業がマンチェッティの電話機を導入したという歴史的記録はありません。
イライシャ・グレイ
1876年、液体送信機を使った電話を設計
イライシャ・グレイ【1835年~1901年】はアメリカの電気技師でした。酸混合物(または他の液体導体)に浸した金属棒を使用する電話の試作品を開発したことで最もよく知られています。
混合液に浸す棒の割合を変えることで、電気抵抗を制御することができました。これにより、グレイは機器と受信機に流れる電流を変化させることができたのです。
1876年2月14日、グレイの弁護士は米国特許庁に特許仮出願を提出しました。そして、それは歴史上最も物議を醸した特許出願のひとつとなったのです。アレクサンダー・グラハム・ベルがイライシャ・グレイから液体送信機のアイデアを盗んだと主張する人々もいます。
アレクサンダー・グラハム・ベル
1892年、長距離電話回線(ニューヨークからシカゴへ)のデモを行うベル
写真出典:米国議会図書館
1876年、実用的な電話の発明で最初の米国特許を取得
アレクサンダー・グラハム・ベル【スコットランド出身の科学者、発明家、工学者、1847年~1922年】の聴覚装置の実験は、最終的に1876年3月7日に最初の電話の特許を授与されるに至りました。彼は、声やその他の音を電信的に送信する装置に関する米国特許174,465を取得しました。
特許が承認された3日後、ベルはボストンでこの装置を使って、別の部屋にいる助手に電話をかけました。「ワトソン君、こちらへ来なさい。君に会いたい」と言ったところ、しばらくして、ワトソンが彼のそばに現れ、この発明が機能することを確認したたのです。
グラハム・ベルとイライシャ・グレイは、1876年2月14日にワシントンにある特許庁にそれぞれ独立した申請書を提出しました。ベルは電話の特許を申請し、グレイは電話の仮出願を申請しました。
この2人が実際に特許庁を訪れたわけではなく、弁護士が代理で訪れました。ベルの弁護士の方がグレイの弁護士よりも早く特許庁に到着したという報告もあります。グレイの弁護士が39番目であったのに対し、ベルの弁護士はその日5番目に到着しました。結局、最初の電話の特許はグラハム・ベルに与えられたのです。
特許が下りた後、ベルはグレイの液体送信機の設計をテストしましたが、それは単にその概念を実証実験しただけでした。明瞭な音声を電気的に伝送できるかどうかを確かめたかったのです。
しかし、液体送信機は商業用機器としては実現不可能であったため、ベルはその後、より優れた電磁式電話の開発に注力しました。1876年3月以降、グレイの送信機の設計を商用製品や公開デモンストレーションに使用することはありませんでした。
トーマス・エジソン
強力な電話信号を生み出すカーボン・マイクロホンを発明
1876年、トーマス・エジソン【アメリカの発明家、起業家、1847年~1931年】はグラハム・ベルとフィリップ・ライスによって開発された送信機を改良するため、カーボン・マイクロホンを開発しました。
このマイクロホンは、カーボングラニュール【炭素粒】によって隔離された2枚の金属板を含んでいました。このカーボングラニュールは音波の圧力によって抵抗を変えます。直流電流(DC)が粒を通して金属板間に流されると、変化する抵抗が変化する電流を生み出し、それがさらに音波の変化する圧力を生み出します。
カーボン・マイクロホンは、追加の増幅なしに、非常に低い直流電圧から高レベルの音声信号を生成することができたため、1890年から1980年代まで、ベル受信機とともに電話機に広く使用されていました。
エジソンは次のように述べています。
「電話の最初の発明者はフィリップ・ライスだが、彼の装置は音楽(音声ではない)しか伝送できなかった。明瞭な音声を伝達する電話機を初めて公に実演したのはグラハム・ベルであった。
最初の商用電話(明瞭な音声を伝送できる)は、自分によってのみ発明された。自分の発明は送信に使われ、ベルの発明は受信に使われた」
ティバダル・プスカシュ
1876年、電話交換機を提案
グラハム・ベルが電話の最初の特許を取得したとき、ティバダル・プスカシュ【ハンガリーの発明家、1844年~1893年】は電気電信交換機のアイデアを練っていました。電話の特許をきっかけに、プスカシュは自分の仕事を考え直すようになりました。
彼はトーマス・エジソンと連絡を取り、電話交換機の開発計画を完成させることに集中し始めたのです。エジソンによれば、電話交換機のアイデアを最初に思いついたのはプスカシュだったということです。
プスカシュのアイデアに基づいた最初の実験用電話交換機は、1877年にボストンのベル電話会社によって構築されました。その10年後、彼は電話交換機の発展を加速させる多重交換機を発表しました。