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忘れてはならない歴史。第二次世界大戦に関する46の興味深い事実と知られざる事実

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本記事は、46 Interesting And Lesser Known Facts About World War II
翻訳・再構成したものです。
配信元または著者の許可を得て配信しています。

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読了時間 : 約10分30秒

第二次世界大戦は、現代世界の政治・経済構造を研究する近代史家にとって、常に注目の話題です。

 

広島と長崎の原爆やスターリングラード攻防戦など、戦争の転機となった事件はよく知られています。しかし、戦争全体の中で重要な役割を果たした、あまり知られていない小さな事件も数多くあります。

 

この記事では、そのような興味深い事実を紹介します。まずは簡潔な事実から始めましょう。

 

1. 第二次世界大戦は、枢軸国と連合国という二つのグループの戦いでした。主な枢軸国はドイツ、日本、イタリアで、連合国はイギリス、フランス、ロシア、中国、アメリカです。

 

2. 人類史上最も血生臭い、最も破壊的な戦争でした。東部戦線でドイツ軍と赤軍【1918年1月から1946年2月までロシア帝国およびソビエト連邦に存在した軍隊】が戦ったレニングラード包囲戦では、約450万人が死亡したと推定されています。

 

レニングラードの空を守る高射砲

 

3. ベルリンの戦いでは130万人近い命が奪われました。

 

4. 第二次世界大戦中、16万人以上の連合国空軍兵士が戦略爆撃作戦で死亡しました。

 

5. ポーランドでのホロコーストの際、アウシュビッツ強制収容所で、スタニスラワ・レシチニスカというポーランド人の助産師が3千人以上の赤ちゃんの出産に対応しました。

 

6. 1923年に生まれたソ連人男性の約80%が第二次世界大戦で死亡しています。

 

7. ドイツは戦争中、110人もの師団長を失いました。

 

8. ドイツ軍の80人以上の指揮官が、ヒトラー自身によって処刑されました。

 

9. アメリカ第8空軍は6,098機の戦闘機を撃墜し、これは12,700発の発砲ごとに1機の割合になります。

 

10. 第二次世界大戦で最も長かった戦いは、1939年9月から1945年5月までずっと続いた大西洋の戦いです。

 

1942年11月、大西洋を東進するアメリカの輸送船団。

 

11. 連合国軍の爆撃機は、戦争中、約300万トンの爆弾を投下した

ルーマニアのアストラ・ロマーナ製油所上空を飛行するB-24リベレーター(ザ・サンドマン)

 

1939年から1945年にかけて、連合国軍の爆撃機はヨーロッパの様々な地域に約300万トンの爆弾を投下しました。連合国軍の爆撃により、ドイツでは約50万人の民間人が死亡したと推定されています。ケルン、デュッセルドルフ、ハンブルクといったドイツの大都市が最も大きな影響を受けました。

 

12. 1940年5月11日、イギリス空軍は、この戦争で初めて民間人を爆撃した

1940年5月11日の夜、イギリス空軍はドイツの都市メンヒェングラートバッハを爆撃しました。残念ながら、これはどちらの側からも都市や民間地域に対する最初の意図的な空爆でした。

 

13. ドイツ軍の爆撃は東部に集中した

1942年8月24日、荒廃したスターリングラード
画像出典:ドイツ連邦アーカイブ

 

1941年6月25日から12月にかけて、ドイツ軍はソ連に約10万トンの爆弾を投下し、スターリングラード、セヴァストポリ、ミンスクなどの大都市をほぼ完全に破壊しました。

 

その後2年間、1942年1月から1943年12月まで、ドイツ空軍は東部戦線への爆撃作戦を続け、65万トン以上の爆弾を投下しました。

 

14. ドイツ人は暗号化された通信は解読されないと信じていた

20世紀半ば、ドイツの上層部は、自分たちの暗号化された通信は連合国には解読されないと信じていました。

 

エニグマと呼ばれる暗号機は連合国にさえ恐れられていました。信号を傍受しなければ、ドイツの船が太平洋で連合国の船を攻撃するのを止めることはほとんど不可能だったからです。

 

エニグマ機

 

15. アラン・チューリングは不可能を可能にした

1939年、アラン・チューリング【イギリスの数学者、暗号研究者】は、政府暗号学校本部のブレッチリー・パークで、傍受したエニグマ暗号の秘密メッセージを解読するための電気機械装置「ボンブ」を数人の仲間とともに考案しました。

 

ボンブは、1938年にポーランドの暗号学者マリアン・レジェフスキによって考案されたポーランドのボンバを大幅に改良したものです。イギリスのボンブは、より信頼性が高く、より高速でした。

 

16. 第二次世界大戦でドイツ軍に殺された最初のアメリカ人兵士

当時、軍事担当官として勤務していたロバート・M・ロージー大尉は、1940年4月21日、ノルウェーにおけるドイツの爆撃の際に死亡しました。ロージー大尉の死は、この戦争における最初のアメリカ軍死亡事故とされています。

 

17. アメリカ海軍の最年少兵はわずか12歳だった

第二次世界大戦でアメリカ海軍に従軍した最年少の軍人は、カルビン・レオン・グラハムという名の12歳の少年でした。彼は真珠湾攻撃の数ヵ月後、1942年8月15日にアメリカ海軍に入隊しました。

 

1942年、カルビン・レオン・グラハム

 

兵役中、グラハムはパープルハート章【戦傷章】と青銅星章を授与されましたが、1943年に年齢を偽っていたことにより除隊された後、その両方が取り消されました。最終的に彼は1978年に名誉除隊となりました。

 

18. ジョージ・S・パットン将軍とウィンストン・チャーチルがドイツに上陸して最初にしたことは、ライン川での放尿だった

連合国軍がドイツの戦線に到達したとき、関係者が最初にしたことは放尿でした。1945年、ジョージ・S・パットン将軍【アメリカの軍人】はライン川に到達すると、川で放尿し、その様子を写真に撮られるようにしました。

 

同じ時期に、ウィンストン・チャーチル【イギリスの政治家、軍人】もライン川で放尿するという、まるで賢者のような行動をとっています。この日、チャーチルと一緒にいた帝国参謀本部長のアラン・ブルック将軍は、後にこう書いています:

 

「決定的な瞬間に下を向いた彼の顔全体に広がった、強烈な満足感に満ちた子供のような笑みを、私は決して忘れることはできないだろう」

 

19. ドイツ巡洋艦アドミラル・グラーフ・シュペーはイギリス海軍に撃沈されたのではない

ドイツ巡洋艦アドミラル・グラーフ・シュペーは、イギリス海軍に撃沈されたのではありません。この船は、ラプラタ沖海戦で大きな損害を受けた後、司令官ハンス・ラングスドルフがモンテビデオの港の近くで意図的に沈没させたのです。

 

炎上するドイツ巡洋艦アドミラル・グラーフ・シュペー

 

20. スターリングラード攻防戦は、おそらく全戦争で最も血生臭い戦いだった

スターリングラード攻防戦(1942~1943年)は、軍人と民間人を問わず、この戦争におけるアメリカ人とイギリス人の死者を合わせた数よりも、ロシア人の死者を多く出す結果となりました。赤軍の手によるスターリングラードでのドイツの敗北は、間違いなく第二次世界大戦の大きな転機のひとつです。

 

21. ヒトラーの親族の一人が第二次世界大戦中、アメリカ海軍に勤務していた

アドルフ・ヒトラーの甥であるウィリアム・パトリック・スチュアート=ヒューストンは、1939年に母親とともにアメリカに移住し、その後徴兵されてアメリカ海軍に入隊しました。1947年の終戦から2年後に除隊となりました。

 

 

22. 広島と長崎の後、もし日本が降伏していなければ、アメリカはさらに多くの都市に核爆弾を投下することを決めていた

日本を無条件降伏させるために、アメリカは日本の他の都市にも核爆弾を爆発させることを決めていました。

 

保存されている軍事文書によると、京都、横浜、新潟、そして首都東京といった大都市が、次の核攻撃のターゲットになる可能性があったのです。

 

23. ドイツ諜報機関は戦時中、南アメリカ諸国に強い存在感を示していた

ドイツの諜報機関「Sicherheitsdienst【親衛隊保安局】」、略してSDは、南アメリカのほとんどの国、特にアルゼンチンに潜入し、秘密基地を設立することに成功しました。

 

その主な目的は、秘密情報を収集し、それをドイツに安全に伝えることでした。この作戦は「ボリバル作戦」というコードネームで呼ばれていました。

 

24. 英国女王エリザベス2世、イギリス陸軍女性部隊に奉仕する

第二次世界大戦の終わり近くに、故エリザベス2世は230873の勤務番号で名誉副官(少尉の階級に相当)となりました。彼女は運転手と整備士として訓練を受け、5ヵ月後に名誉中佐に昇格しました。

 

25. ジョン・R・マッキニー軍曹、日本兵100人を一人で撃退

ハリー・S・トルーマン大統領(中央)とジョン・マッキニー(左)ら名誉勲章受章者たち

 

アメリカ陸軍軍曹ジョン・R・マッキニーは、日本からフィリピンを取り戻す作戦において、100人の日本軍を相手に戦略的に重要な位置を保持し、確保することに成功しました。

 

マッキニーは、その英雄的な働きにより、1946年、ハリー・S・トルーマン大統領から名誉勲章を授与されました。

 

26. 日本人の中国人に対する残虐行為は、ドイツ人のユダヤ人に対する残虐行為をはるかに上回る

第二次世界大戦中に日本軍が殺した中国人の数は、アジアのホロコーストとも呼ばれ、ナチス・ドイツに殺されたユダヤ人の数より多いのです。

 

27. 第二次世界大戦に勝利しながらも、選挙に敗れたイギリスの首相ウィンストン・チャーチル

ウィンストン・チャーチルは、第二次世界大戦に勝利した直後の1945年の選挙で敗れました。1940年から1945年にかけては、戦争中にほとんど無敵になったリーダーシップの資質により、おそらく史上最も人気のある首相であったでしょう。しかし、平時の国内政治には不向きであると理解されたのです。

 

28. ドイツ親衛隊は、世界で最も恐れられた準軍事組織のひとつとなった

ヒトラーの身辺警護のために結成された親衛隊(SS)は、少数民族やヒトラーの政敵に対する大量処刑を実施しました。ホロコーストでもSSは中心的な役割を果たしました。

 

親衛隊はさらに、一般親衛隊(Allgemeine-SS)と武装親衛隊(Waffen-SS)の2つのグループに分かれていました。

 

29. 武装親衛隊は、ほとんどが非ドイツ人で構成されていた

武装親衛隊のメンバーのほとんどは、ドイツ人ではありませんでした。この親衛隊の部隊は、東ヨーロッパ、中央ヨーロッパ、ロシア、アジア、そして驚くことに少数のイギリス兵で構成されていたのです。

 

30. アメリカの清涼飲料水ブランド「コカ・コーラ」は、戦後、世界的な現象となった

第二次世界大戦が始まったとき、コカ・コーラ社はホンジュラス、グアテマラ、メキシコ、ペルー、南アフリカなど約44カ国にボトリング工場を持っていました。戦時中は、これらのボトリング工場のほとんどが、軍隊にのみ供給していました。

 

戦後、これらの工場の多くが民生用に転用され、コカ・コーラの世界的な事業拡大が加速されたのです。

 

31. 日本の満州侵攻が世界大戦の始まりである、と言われることが多い

奉天(現在の中国・瀋陽)に入る日本兵(1931年9月18日)

 

1931年9月18日、日本が満州(中国東北部)に侵攻したことが、第二次世界大戦の始まりとされています。ドイツのポーランド侵攻は、その8年後の1939年9月1日でした。

 

32. ヒトラーの個人用列車は「アメリカ号」と命名された

ヒトラーが戦争の大半を移動司令部として使用した個人用列車は、1940年に「アメリカ号」と命名されました。1943年に「ブランデンブルク」に変更されました。

 

33. イギリス人技師が強力な「殺人光線」の開発に取り組んでいた

1935年、イギリス人技師ロバート・ワトソン・ワットは、電波を使って敵機を破壊する「殺人光線」の研究を行っていました。その一方で、この「殺人光線」はレーダー(電波探知機)へと発展していったのです。

 

34. ナチスの医師ヨーゼフ・メンゲレは囚人に対して致命的な人体実験を行っていた

アウシュビッツ強制収容所で赤軍に救出されたユダヤ人の双子たち

 

ヨーゼフ・メンゲレは、アウシュビッツ強制収容所に勤務するヒトラーの親衛隊の医師でした。彼は、主にユダヤ人とロマニー人の子供である双子(囚人)に対して致命的な実験を行ったことで悪名高いのです。

 

彼の狂気の実験には、一方の双子の眼球を取り出してもう片方の双子の後頭部に貼り付けたり、子供の目の色を変えるための染料を注射したりするものがありました。さらに、結合双生児を作ろうと、ロマニー人の双子を縫い合わせたこともありました。

 

35. ナチス・ドイツは、身体的・精神的障害を持つ市民を大量に殺害するために、自発的な「安楽死」作戦を開始した

1939年、ナチスは「安楽死」計画を開始し、障害者、精神遅滞者のドイツ人8万人~10万人が殺害されました。この作戦はティーアガルテン通りまたはT-4作戦と名付けられました。これは、1940年春、ベルリンのティーアガルテン区に設置された首相官邸の住所です。

 

36. アメリカ軍はネイティブ・アメリカンをコードトーカーに任命していた

第二次世界大戦中、アメリカ軍は軍の秘密通信を翻訳するために、あまり知られていない言語のネイティブ・アメリカンをコードトーカー【暗号通信兵】として雇いました。そのひとつが、ナバホ語です。

 

ナバホ語は、ドイツ語、イタリア語、日本語とはまったく異なる言語であるため、この目的にはほぼぴったりだったのです。

 

37. 第二次世界大戦後、ロシアと日本の間には継続的な紛争がある

第二次世界大戦末期、ソ連は軍事作戦により、日本から千島列島を併合しました。千島列島は、ロシアのカムチャッカ半島の南端から日本の北海道の北東海岸に広がる、細く連なった島々です。

 

70年以上経った今でも、千島列島の問題は、この地域で非常に敏感な問題になっています。

 

38. フランクリン・D・ルーズベルト米大統領、アル・カポネの装甲車を使う

予期せぬ真珠湾攻撃の後、シークレットサービス【主にアメリカ合衆国大統領の警護を行う執行機関】は当時のアメリカ大統領フランクリン・D・ルーズベルトのニーズに応える防弾車を探していました。

 

しかし、アル・カポネ【アメリカのギャング】が脱税で逮捕され、財務省に押収されたリムジンしか見つからなかったのです。ルーズベルトは「カポネ氏が気にしないことを祈る」と言ったと伝えられています。

 

39. この戦争で7000万人近くが死亡した

第二次世界大戦の犠牲者は、5000万人から7000万人にのぼります。そのうちの80%以上が4つの国、ロシア、中国、ドイツ、ポーランドの人々でした。これらの犠牲者の半数以上は民間人であり、その多くは女性や子供でした。

 

 

40. ソビエト軍が初めて正規のパラシュート部隊を整備した

1930年代半ばに結成されたロシア空挺部隊(VDV)は、第二次世界大戦で活躍した最初の正規パラシュート部隊です。戦後も引き続いて長い間、世界最大の空挺部隊でした。

 

41. イアン・フレミングの「ジェームズ・ボンド」は、第二次世界大戦中のスパイから着想を得ている

作家イアン・フレミングは、ユーゴスラビア【現セルビア】出身のスパイ、ドゥシャン・ポポヴをモデルに、ジェームズ・ボンドという有名なキャラクターを作りました。ポポヴは少なくとも5カ国語を話し、目に見えないインクを作る独自の方法を考案しました。彼はマイクロドット【点の大きさにまで縮小した写真】を使用した最初のスパイです。

 

彼は日本軍が真珠湾空爆を計画しているという情報を入手したのですが、FBIは彼の警告に従いませんでした。

 

42. イギリスの主要都市を空襲から守るために使用された阻塞気球

ドイツの急降下爆撃機から港湾や工業地帯などの要所を守るため、イギリスの都市では長い鋼鉄製のケーブルを張り巡らせた阻塞気球が使われました。

 

この気球は空襲の前に打ち上げられ、その下に鋼鉄製のケーブルが張り巡らされています。枢軸軍の爆撃機は、このケーブルとの衝突を避けるために高く飛ぶ必要があり、命中率が低下しました。

 

43. 第二次世界大戦時の兵器が今も使われている

ロシアのカチューシャ・ロケットランチャー

 

1941年7月14日、ソビエトは25秒で320発のロケットを発射できる多連装ロケットシステム「カチューシャ」を発表しました。それから70年以上経った今でも、カチューシャは有効な兵器です。

 

44. 1930年代、アメリカ陸軍は世界最大の軍隊には程遠い存在だった

第二次世界大戦の開戦時、アメリカ軍の人員はわずか13万人ほどで、ポーランド、トルコ、スペイン、ルーマニアといったヨーロッパ諸国に次ぐ世界第16位の兵力でした。

 

45. ドイツ軍は、有名人や外交官を監視するために売春宿を経営していた

親衛隊は、ベルリンで外国の外交官やVIPのために「サロン・キティ」と名付けた売春宿を経営していました。そこは盗聴されており、20人の売春婦は数週間の厳しい教化と訓練を受けました。

 

彼女たちは、一見何の変哲もない会話から客の情報を聞き出すための特別な訓練を受けたのです。

 

1976年の映画「サロン・キティ」の一場面

 

46. アドルフ・ヒトラーとヘンリー・フォードは親しい友人だった

ヒトラーは、フォード・モーター社の創業者であるヘンリー・フォードの額入り写真を机の上に置いていました。ヘンリー・フォードもミシガン州ディアボーンの机の上に、ナチス指導者の額入り写真を置いていました。ヒトラーは『我が闘争』の中で、フォードに起因する反ユダヤ主義的な見解をいくつか盛り込みました。

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